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「10年間アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人」――前代未聞の経歴を持つ男が、非行に走る若者の悩み相談に乗っている。井上ケイさん(52)は、ヤクザだった29歳のとき、ハワイでFBIに捕まり、10年以上、米刑務所で過ごした。ヤクザと縁を切ったケイさんは、「親に捨てられ、行き場を失った子どもたちの悲痛の叫びは誰が受け止めるのか」と訴える。(オルタナS副編集長=池田真隆)

タレントのマツコ・デラックスさんが差別や偏見に対する持論を展開した。差別の根っこには、異なるものに対する「恐怖心」があり、「差別はいけない」と理屈では分かっていても、その恐れが勝ってしまうものと話した。自分たちよりも劣っている集団を見つけては差別するという、「マイノリティがマイノリティを差別する」構造があると言う。(オルタナS副編集長=池田 真隆) マツコ・デラックスさんへのインタビューは、日本財団が主催する「THINK NOW ハンセン病」キャンペーンの一環で行われた。同キャンペーンでは1月25日の「世界ハンセン病の日」に向けて、同病への正しい理解を呼びかけている。日野原重明氏やダライ・ラマ14世、ゆるキャラのくまモン、横綱の白鵬関ら数多くの著名人が無償で協力し、メッセージ動画を掲載している。 ハンセン病は、かつて「らい病」とも言われ、皮膚に発疹ができたり、身体に変形をもたらす感染症として、人類から恐れられてきた。同病への薬は1980年代に開発され、それ以降無償提供されだし、医学的には解決の方向に進んでいる。しかし、回復者は家族と絶縁したままで、本名を名乗ることにも抵抗があり、社会から遠ざけられた暮らしを強いられている。手や腕が変形している見た目から、そして、政府の長期にわたる隔離政策もあり、誤った認識が根付いたままだ。 同キャンペーンにマツコ・デラックスさんが協力したのは、2回目。キャンペーンが始まったのが2014年12月1日で、マツコ・デラックスさんは12月上旬にいち早くメッセージ動画を寄せた。そのとき、「ハンセン病はさまざまな偏見や差別の縮図」とコメントし、話題を集めた。そこで1月中旬に改めて時間をつくってもらい、差別に対する考えを聞いた。 インタビューの冒頭、人を差別する行為の根っこには「恐怖心」があると発言。恐しく思う原因は、未知のものを、「理解できない」と断定してしまうことにあるという。「容姿でも思想でも、理解できないことを理解しようとすることもなく、理解できないままにしておくから恐怖を抱いてしまうのだろう」。 そして、「マイノリティがマイノリティを差別する」構造を指摘した。明治6年から政府の隔離政策は始まったが、その当時、ハンセン病患者は物乞いとして生きており、「遍奴」と見下されていた。しかし、病気を発症していなくても、貧困に喘いでいた人たちはいたはずで、その人たちも何らかの偏見は受けていたとし、「自分たちよりも劣った人たちを見つけて、自己を正当化する」構造が新たな差別を生み出すことになったと話した。 ここから話は、現代の若者にも及んだ。ネットの普及で、胸に秘めていた思いを簡単に発信できるようになったと言い、「未来に希望が持てない・虐げられている」と思っている若者が自己を正当化するため、(差別する)標的をつくってしまうのではないかと不安を示した。 取材の最後に、日本は戦後からの成長を遂げ、豊かな暮らしができるようになったが、「差別がない世の中などいままでになかった」と振り返り、ハンセン病問題を考えるため、ゆっくりと言葉を振り絞り、力強いメッセージを語った。 「理解しようとも思わないことが攻撃につながる。ハンセン病の問題がなんとなく収まったからといってうやむやにしてはならない。改めてハンセン病が差別の対象となった背景、悲惨な状況が生まれ、被害にあった人たちがいることを知ることが大切だと思う。無知であることが結果的に差別という発想につながってしまうことを、改めて考える時期に来ている」

*アメリカ極悪刑務所帰りの元ヤクザ、非行少年と向き合う(1)の続き ちょうどその頃、ケイさんは、自身の生い立ちをまとめた自伝本やDVDを出していた。すると、その影響でケイさんのSNSに若者や保護者から、相談が殺到するようになる。1日に、100件来る日もあった。今でも、週に50件は来ている。「警察や行政、学校の先生には相談できない子どもたちからの悲痛の叫びが届けられる」と話す。

もういいかい?まーだだよ。白骨化してもまーだだよ。――これは、死んでもなお、故郷の墓に入ることが許されないハンセン病患者が自ら、その苦悩を詠んだ川柳だそうだ。今年1月、筆者は東京都東村山市にある国立ハンセン病療養所の一つである多摩全生園を訪れた。目的は、日本で初めて実名で自身の体験を書籍にした元ハンセン病患者の森元美代治さん(76)、美恵子さん(68)夫妻に会うこと。(横浜支局=細川 高頌・横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程3年) *(ハンセン病についてはhttp://alternas.jp/study/global/56151を参照) 園内を案内してもらい、最後に4000人以上の元患者らの遺骨が眠る納骨堂に連れていってもらった。「ここに眠っているのは、最後まで故郷のお墓に入れてもらえなかった人たちなんです」。雪の降り積もる納骨堂の前で、美代治さんがそっと手を合わせる。 美代治さんは故郷の鹿児島県喜界島で、中学二年生のときにハンセン病を発症。以来、自身の病気や社会的差別と闘い続けてきた。実名を公表した理由について「差別のない社会に変えていくためにはきちんと実名を出して、責任を持たなければならないと思ったんです」と美代治さん。 美代治さんがあえて実名を公表したのは、かつて父が話してくれた言葉を大切にしたいとの思いがあったからだ。父は、美代治さんが療養所に隔離されて間もなく、主治医から名前を変えるかどうかと尋ねられ「私がつけた美代治という名前を大切にしたい」と実名を通す意思を示したという。 ハンセン病患者は、「本名がばれたら周りの人に迷惑がかかるから」と自ら名前を捨てる人もいれば、家族や社会からの圧力により半強制的に捨てざるをえない状況に追いやられた人もおり、今も多くの人が偽名で生活している。 「私が最も尊敬しているのは父と母です」美代治さんが誇らしげに語った。「私の父は貧しい農家の出で、学も地位もない」「しかし、今まで自分を差別してきたのは世間ではエリートと言われている人が多かった。最終的に人間の人格を決めるのは、やはりその人の心なんです」。 実名を出したことで、親族から「お前のせいで親戚みんなが迷惑している。青酸カリを飲んで死んでくれ」という心無い非難も受けた。それでも美代治さんは、差別を無くすために今も世界中で講演活動を続けている。 「ハンセン病も水俣病も原爆、原発の被害者に対する差別も根本的な構造は同じ。ハンセン病への差別について考えることは様々な差別行為を無くすことにつながる」と、美代治さんは訴えた。

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アメリカ極悪刑務所帰りの元ヤクザ、非行少年と向き合う(1)

「10年間アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人」――前代未聞の経歴を持つ男が、非行に走る若者の悩み相談に乗っている。井上ケイさん(52)は、ヤクザだった29歳のとき、ハワイでFBIに捕まり、10年以上、米刑務所で過ごした。ヤクザと縁を切ったケイさんは、「親に捨てられ、行き場を失った子どもたちの悲痛の叫びは誰が受け止めるのか」と訴える。(オルタナS副編集長=池田真隆)

「10年間アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人」――前代未聞の経歴を持つ男が、非行に走る若者の悩み相談に乗っている。井上ケイさん(52)は、ヤクザだった29歳のとき、ハワイでFBIに捕まり、10年以上、米刑務所で過ごした。ヤクザと縁を切ったケイさんは、「親に捨てられ、行き場を失った子どもたちの悲痛の叫びは誰が受け止めるのか」と訴える。(オルタナS副編集長=池田真隆)

ケイさんは、「子どもたちは悪くない。向き合って、筋を通せば分かり合える」と話す

ケイさんは、1961年に東京・中野で生まれ、親の愛を知らずに育てられる。「父親の記憶はまったくない」と話し、母親からは、「松本というアナウンスが流れたら降りろ」とだけ言われて、当時7歳だったその少年は一人で電車に乗せられて親戚に預けられた。

10代で非行に走る。暴走族になり、ヤクザになった。ヤクザ時代には、商売が相次いで成功し、サイパンにコンドミニアムを所有するほど巨額の富を築く。しかし、29歳のとき、弟分に裏切られ、ハワイで麻薬の密売中にFBIのおとり捜査にはまってしまう。そこから、壮絶な刑務所暮らしが始まった。

「アメリカの刑務所は、日本とは全然違う。売春も麻薬の取引も自由に好き放題できる」とケイさんは語る。刑務所で働く監視官は低賃金であるため、囚人から口止め料をもらい生活の足しにしていたのだ。

しかし、自由であるがゆえに、危険過ぎる場所である。黒人系、白人系、中国系、イタリア系など、人種間の違いによる抗争が起き、毎日のように殺人事件が起きていた。

「刑務所で殺人事件が起きても、すでに囚人たちは終身刑が科せられているので、刑期の延長が付いても痛くもない」と説明する。刑務所では、ケイさんも襲われることがあった。今でも、おでこには5キロのおもりで殴られ、骨が陥没した傷跡が残る。

しかし、襲われても、監視官に助けを求めはしなかった。「助けを求めてしまうと、ずっと弱虫のレッテルを貼られたまま刑務所内で過ごすことになり、周りからなめられてしまう」からだ。いくら怪我をしても、屈強な外人たちに立ち向かった。

あるとき、刑務所内で最強と言われるメキシコ系アメリカ人グループの「チカーノ」のビックホーミーと呼ばれるボスに認められる。こうして、ケイさんはチカーノの仲間たちと家族同然の関係を築き上げ、刑期を務め上げた。

2001年、刑期を終え、日本に戻った。ヤクザとは縁を切ったが、チカーノとは関係が続いている。チカーノの文化は、「仲間思い」と話す。「日本のヤクザとは違い金では動かない。とても貧しいが、家族・仲間思いの奴らだ。仲間のためには、自己をも犠牲にする」。

「家族」や「仲間」についてチカーノから学び、絶縁していた母親とも向き合えた。現在は、平塚でチカーノ系ファッションブランドショップ「HOMIE(ホーミー)」を経営しながら、ボランティアで非行に走る子どもたちのカウンセリングを行う。

なぜ、ケイさんは子どもたちのために動いたのか。それは、「若い頃から、お世話になっていたある刑事のおかげだ」と話す。ケイさんは、日本に帰国してから、その刑事に挨拶に行った。ケイさんが暴走族時代に補導され、以来、事件を起こすごとに説教をくらった刑事である。

ケイさんがアメリカ刑務所にいたころも手紙のやりとりを続けていた。「おれが、アメリカにいたころに、息子がグレてしまった時期があった。母親では、手をつけられようがないから、その刑事に、『息子を頼む』と手紙を出したのが始まり」と。

日本で会ったとき刑事から、「これからどうする?また、ヤクザに戻るのか?」と尋ねられると、「ヤクザになる気はないです」と返した。すると、「だったら、これからは世のため人のために生きろ」と説教を受けた。

しかし、刑事からそう言われたが、社会のために何をすれば良いのかまったく分からなかった。

(2)へ続く

オルタナS副編集長・池田真隆

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「10年間アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人」――前代未聞の経歴を持つ男が、非行に走る若者の悩み相談に乗っている。井上ケイさん(52)は、ヤクザだった29歳のとき、ハワイでFBIに捕まり、10年以上、米刑務所で過ごした。ヤクザと縁を切ったケイさんは、「親に捨てられ、行き場を失った子どもたちの悲痛の叫びは誰が受け止めるのか」と訴える。(オルタナS副編集長=池田真隆)

タレントのマツコ・デラックスさんが差別や偏見に対する持論を展開した。差別の根っこには、異なるものに対する「恐怖心」があり、「差別はいけない」と理屈では分かっていても、その恐れが勝ってしまうものと話した。自分たちよりも劣っている集団を見つけては差別するという、「マイノリティがマイノリティを差別する」構造があると言う。(オルタナS副編集長=池田 真隆)

マツコ・デラックスさんへのインタビューは、日本財団が主催する「THINK NOW ハンセン病」キャンペーンの一環で行われた。同キャンペーンでは1月25日の「世界ハンセン病の日」に向けて、同病への正しい理解を呼びかけている。日野原重明氏やダライ・ラマ14世、ゆるキャラのくまモン、横綱の白鵬関ら数多くの著名人が無償で協力し、メッセージ動画を掲載している。

ハンセン病は、かつて「らい病」とも言われ、皮膚に発疹ができたり、身体に変形をもたらす感染症として、人類から恐れられてきた。同病への薬は1980年代に開発され、それ以降無償提供されだし、医学的には解決の方向に進んでいる。しかし、回復者は家族と絶縁したままで、本名を名乗ることにも抵抗があり、社会から遠ざけられた暮らしを強いられている。手や腕が変形している見た目から、そして、政府の長期にわたる隔離政策もあり、誤った認識が根付いたままだ。

同キャンペーンにマツコ・デラックスさんが協力したのは、2回目。キャンペーンが始まったのが2014年12月1日で、マツコ・デラックスさんは12月上旬にいち早くメッセージ動画を寄せた。そのとき、「ハンセン病はさまざまな偏見や差別の縮図」とコメントし、話題を集めた。そこで1月中旬に改めて時間をつくってもらい、差別に対する考えを聞いた。

インタビューの冒頭、人を差別する行為の根っこには「恐怖心」があると発言。恐しく思う原因は、未知のものを、「理解できない」と断定してしまうことにあるという。「容姿でも思想でも、理解できないことを理解しようとすることもなく、理解できないままにしておくから恐怖を抱いてしまうのだろう」。

そして、「マイノリティがマイノリティを差別する」構造を指摘した。明治6年から政府の隔離政策は始まったが、その当時、ハンセン病患者は物乞いとして生きており、「遍奴」と見下されていた。しかし、病気を発症していなくても、貧困に喘いでいた人たちはいたはずで、その人たちも何らかの偏見は受けていたとし、「自分たちよりも劣った人たちを見つけて、自己を正当化する」構造が新たな差別を生み出すことになったと話した。

ここから話は、現代の若者にも及んだ。ネットの普及で、胸に秘めていた思いを簡単に発信できるようになったと言い、「未来に希望が持てない・虐げられている」と思っている若者が自己を正当化するため、(差別する)標的をつくってしまうのではないかと不安を示した。

取材の最後に、日本は戦後からの成長を遂げ、豊かな暮らしができるようになったが、「差別がない世の中などいままでになかった」と振り返り、ハンセン病問題を考えるため、ゆっくりと言葉を振り絞り、力強いメッセージを語った。

「理解しようとも思わないことが攻撃につながる。ハンセン病の問題がなんとなく収まったからといってうやむやにしてはならない。改めてハンセン病が差別の対象となった背景、悲惨な状況が生まれ、被害にあった人たちがいることを知ることが大切だと思う。無知であることが結果的に差別という発想につながってしまうことを、改めて考える時期に来ている」

*アメリカ極悪刑務所帰りの元ヤクザ、非行少年と向き合う(1)の続き

ちょうどその頃、ケイさんは、自身の生い立ちをまとめた自伝本やDVDを出していた。すると、その影響でケイさんのSNSに若者や保護者から、相談が殺到するようになる。1日に、100件来る日もあった。今でも、週に50件は来ている。「警察や行政、学校の先生には相談できない子どもたちからの悲痛の叫びが届けられる」と話す。



もういいかい?まーだだよ。白骨化してもまーだだよ。――これは、死んでもなお、故郷の墓に入ることが許されないハンセン病患者が自ら、その苦悩を詠んだ川柳だそうだ。今年1月、筆者は東京都東村山市にある国立ハンセン病療養所の一つである多摩全生園を訪れた。目的は、日本で初めて実名で自身の体験を書籍にした元ハンセン病患者の森元美代治さん(76)、美恵子さん(68)夫妻に会うこと。(横浜支局=細川 高頌・横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程3年)

*(ハンセン病についてはhttp://alternas.jp/study/global/56151を参照)

園内を案内してもらい、最後に4000人以上の元患者らの遺骨が眠る納骨堂に連れていってもらった。「ここに眠っているのは、最後まで故郷のお墓に入れてもらえなかった人たちなんです」。雪の降り積もる納骨堂の前で、美代治さんがそっと手を合わせる。

美代治さんは故郷の鹿児島県喜界島で、中学二年生のときにハンセン病を発症。以来、自身の病気や社会的差別と闘い続けてきた。実名を公表した理由について「差別のない社会に変えていくためにはきちんと実名を出して、責任を持たなければならないと思ったんです」と美代治さん。

美代治さんがあえて実名を公表したのは、かつて父が話してくれた言葉を大切にしたいとの思いがあったからだ。父は、美代治さんが療養所に隔離されて間もなく、主治医から名前を変えるかどうかと尋ねられ「私がつけた美代治という名前を大切にしたい」と実名を通す意思を示したという。

ハンセン病患者は、「本名がばれたら周りの人に迷惑がかかるから」と自ら名前を捨てる人もいれば、家族や社会からの圧力により半強制的に捨てざるをえない状況に追いやられた人もおり、今も多くの人が偽名で生活している。

「私が最も尊敬しているのは父と母です」美代治さんが誇らしげに語った。「私の父は貧しい農家の出で、学も地位もない」「しかし、今まで自分を差別してきたのは世間ではエリートと言われている人が多かった。最終的に人間の人格を決めるのは、やはりその人の心なんです」。

実名を出したことで、親族から「お前のせいで親戚みんなが迷惑している。青酸カリを飲んで死んでくれ」という心無い非難も受けた。それでも美代治さんは、差別を無くすために今も世界中で講演活動を続けている。

「ハンセン病も水俣病も原爆、原発の被害者に対する差別も根本的な構造は同じ。ハンセン病への差別について考えることは様々な差別行為を無くすことにつながる」と、美代治さんは訴えた。

アメリカ極悪刑務所帰りの元ヤクザ、非行少年と向き合う(1)

「10年間アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人」――前代未聞の経歴を持つ男が、非行に走る若者の悩み相談に乗っている。井上ケイさん(52)は、ヤクザだった29歳のとき、ハワイでFBIに捕まり、10年以上、米刑務所で過ごした。ヤクザと縁を切ったケイさんは、「親に捨てられ、行き場を失った子どもたちの悲痛の叫びは誰が受け止めるのか」と訴える。(オルタナS副編集長=池田真隆)

マツコ・デラックスさん、差別の「根っこ」語る

タレントのマツコ・デラックスさんが差別や偏見に対する持論を展開した。差別の根っこには、異なるものに対する「恐怖心」があり、「差別はいけない」と理屈では分かっていても、その恐れが勝ってしまうものと話した。自分たちよりも劣っている集団を見つけては差別するという、「マイノリティがマイノリティを差別する」構造があると言う。(オルタナS副編集長=池田 真隆)

マツコ・デラックスさんへのインタビューは、日本財団が主催する「THINK NOW ハンセン病」キャンペーンの一環で行われた。同キャンペーンでは1月25日の「世界ハンセン病の日」に向けて、同病への正しい理解を呼びかけている。日野原重明氏やダライ・ラマ14世、ゆるキャラのくまモン、横綱の白鵬関ら数多くの著名人が無償で協力し、メッセージ動画を掲載している。

ハンセン病は、かつて「らい病」とも言われ、皮膚に発疹ができたり、身体に変形をもたらす感染症として、人類から恐れられてきた。同病への薬は1980年代に開発され、それ以降無償提供されだし、医学的には解決の方向に進んでいる。しかし、回復者は家族と絶縁したままで、本名を名乗ることにも抵抗があり、社会から遠ざけられた暮らしを強いられている。手や腕が変形している見た目から、そして、政府の長期にわたる隔離政策もあり、誤った認識が根付いたままだ。

同キャンペーンにマツコ・デラックスさんが協力したのは、2回目。キャンペーンが始まったのが2014年12月1日で、マツコ・デラックスさんは12月上旬にいち早くメッセージ動画を寄せた。そのとき、「ハンセン病はさまざまな偏見や差別の縮図」とコメントし、話題を集めた。そこで1月中旬に改めて時間をつくってもらい、差別に対する考えを聞いた。

インタビューの冒頭、人を差別する行為の根っこには「恐怖心」があると発言。恐しく思う原因は、未知のものを、「理解できない」と断定してしまうことにあるという。「容姿でも思想でも、理解できないことを理解しようとすることもなく、理解できないままにしておくから恐怖を抱いてしまうのだろう」。

そして、「マイノリティがマイノリティを差別する」構造を指摘した。明治6年から政府の隔離政策は始まったが、その当時、ハンセン病患者は物乞いとして生きており、「遍奴」と見下されていた。しかし、病気を発症していなくても、貧困に喘いでいた人たちはいたはずで、その人たちも何らかの偏見は受けていたとし、「自分たちよりも劣った人たちを見つけて、自己を正当化する」構造が新たな差別を生み出すことになったと話した。

ここから話は、現代の若者にも及んだ。ネットの普及で、胸に秘めていた思いを簡単に発信できるようになったと言い、「未来に希望が持てない・虐げられている」と思っている若者が自己を正当化するため、(差別する)標的をつくってしまうのではないかと不安を示した。

取材の最後に、日本は戦後からの成長を遂げ、豊かな暮らしができるようになったが、「差別がない世の中などいままでになかった」と振り返り、ハンセン病問題を考えるため、ゆっくりと言葉を振り絞り、力強いメッセージを語った。

「理解しようとも思わないことが攻撃につながる。ハンセン病の問題がなんとなく収まったからといってうやむやにしてはならない。改めてハンセン病が差別の対象となった背景、悲惨な状況が生まれ、被害にあった人たちがいることを知ることが大切だと思う。無知であることが結果的に差別という発想につながってしまうことを、改めて考える時期に来ている」

アメリカ極悪刑務所帰りの元ヤクザ、非行少年と向き合う(2)

*アメリカ極悪刑務所帰りの元ヤクザ、非行少年と向き合う(1)の続き

ちょうどその頃、ケイさんは、自身の生い立ちをまとめた自伝本やDVDを出していた。すると、その影響でケイさんのSNSに若者や保護者から、相談が殺到するようになる。1日に、100件来る日もあった。今でも、週に50件は来ている。「警察や行政、学校の先生には相談できない子どもたちからの悲痛の叫びが届けられる」と話す。



「本名を名乗れなかった人がいたことを知っていますか」

もういいかい?まーだだよ。白骨化してもまーだだよ。――これは、死んでもなお、故郷の墓に入ることが許されないハンセン病患者が自ら、その苦悩を詠んだ川柳だそうだ。今年1月、筆者は東京都東村山市にある国立ハンセン病療養所の一つである多摩全生園を訪れた。目的は、日本で初めて実名で自身の体験を書籍にした元ハンセン病患者の森元美代治さん(76)、美恵子さん(68)夫妻に会うこと。(横浜支局=細川 高頌・横浜国立大学教育人間科学部人間文化課程3年)

*(ハンセン病についてはhttp://alternas.jp/study/global/56151を参照)

園内を案内してもらい、最後に4000人以上の元患者らの遺骨が眠る納骨堂に連れていってもらった。「ここに眠っているのは、最後まで故郷のお墓に入れてもらえなかった人たちなんです」。雪の降り積もる納骨堂の前で、美代治さんがそっと手を合わせる。

美代治さんは故郷の鹿児島県喜界島で、中学二年生のときにハンセン病を発症。以来、自身の病気や社会的差別と闘い続けてきた。実名を公表した理由について「差別のない社会に変えていくためにはきちんと実名を出して、責任を持たなければならないと思ったんです」と美代治さん。

美代治さんがあえて実名を公表したのは、かつて父が話してくれた言葉を大切にしたいとの思いがあったからだ。父は、美代治さんが療養所に隔離されて間もなく、主治医から名前を変えるかどうかと尋ねられ「私がつけた美代治という名前を大切にしたい」と実名を通す意思を示したという。

ハンセン病患者は、「本名がばれたら周りの人に迷惑がかかるから」と自ら名前を捨てる人もいれば、家族や社会からの圧力により半強制的に捨てざるをえない状況に追いやられた人もおり、今も多くの人が偽名で生活している。

「私が最も尊敬しているのは父と母です」美代治さんが誇らしげに語った。「私の父は貧しい農家の出で、学も地位もない」「しかし、今まで自分を差別してきたのは世間ではエリートと言われている人が多かった。最終的に人間の人格を決めるのは、やはりその人の心なんです」。

実名を出したことで、親族から「お前のせいで親戚みんなが迷惑している。青酸カリを飲んで死んでくれ」という心無い非難も受けた。それでも美代治さんは、差別を無くすために今も世界中で講演活動を続けている。

「ハンセン病も水俣病も原爆、原発の被害者に対する差別も根本的な構造は同じ。ハンセン病への差別について考えることは様々な差別行為を無くすことにつながる」と、美代治さんは訴えた。